藤原定家(1162~1241)京極邸は平安京左京二条四坊十三町にあったと伝える。その邸地より,定家は京極中納言と称された。九条家に出入りし良経(1169~1206)や慈円(1155~1225)の知遇を受け,後鳥羽院(1180~1239)に見出されその歌風を大成させた。治承4(1180)~嘉禎元(1235)年に及ぶ日記『明月記』を残す。その墨蹟も「定家 Read more.
二条殿は,南北朝時代太政大臣を務め,和歌連歌で著名な二条良基(1320~88)の邸宅で,押小路殿とも呼ばれた。室町時代の洛中洛外図屏風に描かれる。邸内には龍躍池があり,その景観の美しさから皇族や織田信長(1534~82)が好んだ。信長は天正5(1577)年に移り住み,天正7年正親町天皇皇太子誠仁親王に献上した。天正10(1573 Read more.
皆川泰蔵 1917-2005染色家。京美工卒。ろう染めひとすじに歩み、そのモチーフを寺社庭園等に求め、世界各国を旅して取材。装飾性の強調された構図、新鮮な色彩と新技法を駆使して独創的な世界を築き上げた。日展評議員・日本染色造形協会理事長、鹿児島女子短大教授を務めた。 Read more.
寛文8(1668)年京都町奉行が創設され,京都所司代等の司法・行政の権限が委譲された。町奉行所は東西に分けられ隔月交代で任務を担当した。西町奉行所は千本通二条城西側に建てられた。この石標はその跡を示すものである。 Read more.
日扇(1817~1890)は、本門仏立宗の開祖。この地で生まれた日扇は、嘉永元年(1848)に出家する。しかし教団に対する不満が高まり、安政4年(1857)には還俗して長松清風と称し、本門仏立講(本門仏立宗)を開いて既成教団を批判した。この石碑は、この地が日扇(長松清風)の生誕地であることを示している。 Read more.
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。2月2日中学校・女学校・女紅場を視察。織工場では織機・綴れ織・機械の縫い方・西洋仕立等を一覧。この石標は織工場の跡を示すものである。 Read more.
【ほていやま保存会】(休山)『八坂神社記録』の明応9年の項に「一九番布袋山」とあり、前(先)祭の山だったことがわかっている。天明8年に類焼。ご神体のみが残ったため山の形状は定かではないが、『祇園祭礼巡行図巻』に、被り物で巡行に参加する様子が描かれているのが興味深い。 Read more.
“筍山”(たけのこやま)とも呼ぶ。中国の史話からの取材で,二十四孝の一人,呉の国の孟宗が,雪の中,病気の母が欲しがる筍を探して歩き回り,とうとう掘り当てた姿を現している。孟宗の母は元気を取り戻し伝説となった。町名が笋(たかんな=たけのこの意味)町であったことから,この伝説が取り入れられた。 Read more.
伊勢の国・鈴鹿山で人々を苦しめた悪鬼を退治した、鈴鹿権現「瀬織津姫命」の説話がテーマとなった山である。ご神体の瀬織津姫命は女人の姿で、金の烏帽子をかぶり長刀を持っている。真松には沢山の絵馬がつけられ、巡行後、盗難除けのお守りとして授与される。山洞には悪鬼の首の象徴として赤熊のかしらが置かれ、山中を表現して桧数本を立てている。胴懸は18世紀の中国・清朝時代の作品「中国故事人物図」。 Read more.
三条通から新京極通に入るところが、高低差1メートル足らずの緩やかな坂になっていて、「たらたら坂」という。すぐ西の寺町通にも坂はないのに、ここだけある。天正十八年(1590)豊臣秀吉が増田長盛に命じて三条大橋を作らせた際、橋梁を高くしてこの橋に至る三条通を堤にした名残という。 Read more.
誓願寺の裏手にある長仙院(浄土宗の寺。誓願寺の塔頭)の春日大明神の前にある梅をいう。蕾の間は紅色なのに、蕾が開くと白い花が咲く「未開紅」という珍しい梅。『雍州府志』に「その花、開かんと欲する時、その色、甚だ紅なり。世に未開紅と称す。春初、洛人の奇観なり。未開の時より散乱の日に至りて男女群り集る」と記し、また『名所都鳥』に「いまだ開かざるに。くれないなる謂なり。開落ともに都鄙の男女むらがりて、詩歌… Read more.
世阿弥作と伝えられる謡曲『誓願寺』は、熊野参詣で御札を全国に広めよという霊告を受けた一遍上人が、布教のため誓願寺にやってきて歌舞の菩薩となって現れた和泉式部に念仏の尊さを説く物語。歌舞には扇が欠かせないことから、境内に扇塚が作られたもの。また、江戸時代初期に誓願寺第五十五世安楽庵策伝上人が『醒睡笑』を著して落語の祖として仰がれていることも「扇子」との強い結びつきが窺われる。 Read more.
同じく誠心院本堂の左手前にある小振りの梅の古木をいう。『雍州府志』に「和泉式部の墓あり。其の前の梅の樹、軒端の梅と称す」とある。和泉式部が生前愛した「軒端の梅」にちなんで、後に植えられたものである。傍らに和泉式部の小さな歌碑があるので、紹介しておこう。 霞立つ春来にけりと 此花見るにぞ 鳥の声も待たるる 軒端梅 Read more.
西光寺は浄土宗西山深草派で、本尊は阿弥陀如来像。その傍らに安置されている薬師如来像が寅薬師と称されているので、寺の通称名ともなっている。寺伝によると、この薬師如来は弘法大師。寅の日、寅の刻に成就したので寅薬師との異名がある。もともと宮中にあったのを弘安五年(1282)、勅により下賜されものという(『京都坊目誌』)。江戸期は、名薬師の一つ(『京羽二重』)、薬師十二所参第三番札所(『都すずめ案内者』… Read more.
永福寺の入口を入って右手の厨子に安置されているのが鯉地蔵。長80センチぐらいでやや小ぶりな地蔵である。形どおりに左手に宝珠、右手に錫杖を握る。『京師巡見記』(作者不詳)の明和四年(1767)の条に「昔、東山義政の時代、或時、家僕使に行しに、状箱を河水に流し詮方無。常に此地蔵尊を信じけるに、仍て一心に祈願せしに、忽ち鯉魚と化し、状箱を銜へて河水に浮み、右の難を遁る。仍て鯉の地蔵尊と云ふ起源これあり… Read more.
善長寺は浄土宗西山禅林寺派に属する寺院で永正年間に忍想上人が建立。本尊の立江地蔵菩薩像は、阿波国(徳島県)立江寺(四国八十八箇所第十九番札所)に安置されている地蔵菩薩像を模刻したものと伝える。別名をくさがみ(疱神)さんといい、疱瘡(天然痘)が跋扈した江戸時代には、疱瘡よけのご利益があるとして信仰を集めた。また、同寺は江戸時代、上下寺町新四十八願寺の第二十九番札所(『都すずめ案内者』)として賑わっ… Read more.
社伝によると錦天満宮(祭神菅原道真)は、長保年間(999-1004)歓喜寺の鎮守として創建。豊臣秀吉が現在地の錦小路東端に移したのが社名になる。当社の石の明神鳥居は、新京極通から錦小路に入ってすぐにあるが、笠木・島木と貫ぬきが両側の民家に突き刺さっているように見える。 Read more.
錦天満宮の境内摂社塩竃神社の祭神は、源氏物語の主人公光源氏のモデルともいわれる源融(嵯峨天皇皇子)。源融の邸宅六条河原院跡地に歓喜光寺が創建された際、その鎮守として天満大自在天神とともに祀られた。栄耀栄華を尽くして往生した人物が祭神なのが珍しい。 Read more.
錦天満宮の境内摂社日之出稲荷神社にある鳥居。額束の両側に合掌状の破風はふ扠首さす束つかをはめた特異な形状で、同種の鳥居は伏見稲荷大社の二ノ峰と三ノ峰の間にある荷田社しかない珍しいもの。昭和の初めに錦天満宮の宮司の発案でできた。 Read more.