Akku c. • July 25, 2020上屋敷は江戸城に登城する藩主が住んでいるので江戸城周辺に置くのが普通です。なので、品川区の上屋敷跡はここが唯一。三日月藩森家ができたときに親戚の津山藩森家の抱屋敷をもらいうけて上屋敷にしたものらしいです。早起きしないと遅刻しそうだな、なぜずっとここに上屋敷を置いていたのかな、住み心地が良かったのかな、と想像を巡らせるのも楽しいです。なお、赤穂事件後に赤穂藩主になった森家も親戚。森蘭丸も森家の一族。
Massara Nati …. • October 9, 2013「きゅう・えちごしいやはんほりけ しもやしき」…この付近は越後国(現・新潟県)椎谷藩(1万石)堀出雲守之敏の下屋敷で、西側は讃岐国(現・香川県)高松藩松平家下屋敷に接していた。元来5千5百坪を有する下屋敷だったが、安政三年(1856)時には、この内3千坪を御留守居土岐丹波守頼旨(3千5百石)に貸し、椎谷藩下屋敷は実質2千5百坪であった。
Massara Nati …. • May 25, 2014この地は、鳥取藩下屋敷になる以前は出雲国(現・島根県)松江藩松平家下屋敷跡で、7代藩主松平治郷が隠居後、ここに独楽庵はじめ11の茶室を造り、茶道三昧の晩年を送ったところとしてしられる。その後、周辺の抱地以外は幕府に公収され、嘉永6年(1853)に鳥取藩池田家に下屋敷として与えられた。このころ、著名な茶室は取り払われたという。(説明板より抜粋)
Rue. S. • November 13, 2022元々は仙台藩伊達家が 2 つ保持していた下屋敷の一つ「大崎屋敷」(もうひとつは大井の「品川屋敷」) 。1737 年に鯖江藩真鍋家との相対替で手に入れたものだが、維新後の 1873 年に島津家が当地を入手。そのため、かつて「袖ヶ崎」と呼ばれていた当地の高台は以後今日まで「島津山」と呼ばれる。下屋敷時代の遺構はなく、清泉女子大学敷地内に案内板が立つのみ。ちなみに当地は朱引内ではあるがぎりぎり墨引の外。
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