- Popular
- Recent
- 1791年(寛政3年)9月3日に大雨が降り始め、翌日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって弁天社をはじめ、その付近の家屋がことごとく流されて多数の死者・行方不明者が出ました。幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西の5,467余坪を買い上げて空き地とし、家作を禁じて後の水害に備えることとし、さらに寛政6年12月、空き地東西の北端に波除碑2基を建て、見通しの標としました。
- 初音航空隊October 8, 2012【波除碑・伝(その1)】1791年(寛政3年)9月4日、深川洲崎一帯に襲来した高潮により、家屋がことごとく流され多数の死者、行方不明者が出た。 幕府はこの災害を重く見て、洲崎弁天社から西のあたり一帯の東西285間、南北30余間、総坪数5,467坪(約1万8000㎡)を買い上げて空き地とし、これより海側に人が住むことを禁じた。そして空地の東北地点(洲崎神社)と西南地点(平久橋の袂)に波除碑を建てた。
- 洲崎弁天の境内に建つ江戸時代中期の石碑。1791年9月4日にこの一体を襲った津波の惨状から、洲崎弁天から西側一帯を、津波に備えての冠水地帯として居住を禁止し、災害の惨状を記録した2本の波除けの碑を設置した。現在このうちの1本が洲崎弁天の境内に移設され現存している
- 初音航空隊October 8, 2012【波除碑・伝(その2)】当時の碑は地上6尺、角1尺であったとの由。 石碑は砂岩で脆く、震災と戦災によって破損が著しい。現在地は原位置から若干移動しているものと思われる。 建設は寛政6年(1794)頃で碑文は屋代弘賢であるとの由。