京都は多すぎたんで、「西日本編」から別リスト化です(現在移し替え中)。源氏や平家ゆかりの地を訪ねます。西日本編・東日本編もあるよ
1. 光念寺
2. 首途八幡宮
3. 義経腰掛の松(ほんがんさん)
4. 源義経産湯井ノ遺趾
5. 牛若丸誕生井
6. 牛若丸弁慶像
Cono: 河原町五条交差点と五条大橋の間の中央分離帯にあります。近くの横断歩道を途中まで渡り、像に接近することができます( ̄∇ ̄)
7. 蓮光寺
Cono: ここに安置されている「駒止地蔵」はその昔、鴨川の氾濫で埋もれていたのですが、平清盛が乗る駒(馬)が六条河原に差し掛かった時、急に馬が動かなくなり、そこを掘りおこしたことにより発見されたそうです。「駒止地蔵」の名もこのエピソードからきてます。
8. 若一神社
Cono: 西大路駅より徒歩五分。平清盛公 海運出世の神、若一王子を祀ってます
9. 平重衡受戒之地
Cono: 平重衡は、一ノ谷の戦いで源氏に捕えられ、鎌倉に送られる途中、堀川八条御堂で元々帰依していた法然の手より受戒したとされています。NHK大河「平清盛」の放送に合わせてか、2011年、この碑がこの地に建てられました。京都駅から東寺に行くまでの八条油小路の交差点のセレモニー会館の敷地内にあるので見つけやすいですよヽ(^0^)ノ
10. 滝口寺
Cono: 平重盛の家来・斎藤時頼は、建礼門院の侍女・横笛に恋するが、「平家一門でありながら、なぜ横笛ごときに恋をするのか」と周り責められ自責するが、最終的には「滝口入道」として出家。出家した時頼を追って横笛はここを訪ねるが、仏道に入った時頼は横笛に真実をつけず、二人の恋は悲恋として終わってしまう。今では、その悲恋を偲ぶかのように二人の木像がこの茅葺きの屋根の下で仲良く安置されている。
11. Giouji Temple
Cono: 祇王・祇女姉妹は白拍子として、清盛に寵愛されていたが、仏御前という白拍子へ清盛の寵愛が移ると、母・刀自とともに尼となり、この祇王寺と隠れ住むようになった。そこへ尼になった仏御前も訪ねて来て、4人は念仏を唱えながら余生をともに過ごした。世の無常に翻弄された4人がこの美しい寺で、少しでも穏やかに過ごせたことを祈ります。
12. 俊成社
Cono: 平安末期の歌人で勅撰集「千載和歌集」の選者として知られる藤原俊成が祀られています。ご存知の通り、定家の父。『平家物語』では、都落ちする清盛の末弟・平忠度(ただのり)が、和歌の師として仰いでいた俊成邸を訪れ、和歌を差し出すくだりが有名ですね。
13. 即成院
Cono: 那須与一ゆかりの地。義経の命で京に向かう道中、与一は突然の病に倒れます。療 養中、ここの阿弥陀さまを信仰し、そのおかげか、病も癒え、「屋島の戦い」では、有名な扇の的のシーンでのあの活躍を果たします。その後、即成院の阿弥陀さまの仏徳を感じ、京都に戻り出家しました。境内には巨大な石塔のお墓があります。
14. Benkei Ishi
Cono: 「よーじや」の前。幼少の頃、三条京極に住んでいた弁慶が熱愛した石。弁慶が奥州高舘で最期を迎えた後、高舘に移されたが、石が「三条京極に往かむ」と発声鳴動し、高舘で熱病が蔓延したため、三条京極に送り返したそう。というか、弁慶って石フェチ?(^◇^;)
15. Yasaka Shrine
Cono: 白河院は、寵愛する祇園女御の所に行く途中で、化け物と遭遇する。院のお供であった忠盛(清盛の父)は、それを灯籠に火をつけようとする老法師だと見破る。その灯籠がこれ。忠盛のその冷静さを称賛し、院は祇園女御を褒美として与えるが、この時、女御は既に院の子を身ごもっていたとも言われ、そのお腹の子が清盛だと『平家物語』は伝えている。
16. 朧の清水
Cono: その昔、建礼門院が寂光院へ行く途中、この水溜りに映ったやつれた自分の姿を見て、自身の身の上を嘆いたそうな。
17. 建礼門院 大原西陵
Cono: 清盛の娘・建礼門院徳子の墓所。寂光院のすぐそばに、この波乱の人生を送った女性のお墓がひっそりとあります。出家していたので、鳥居の中に五輪塔がある、珍しい仏教式御陵です。
18. 三條東殿遺址
Cono: 平治元(1159)年12月9日夜、藤原信頼・源義朝の軍勢によって三條東殿が襲撃、後白河法皇はここから連れさられ内裏の一本御書所に幽閉される。こうして平治の乱が勃発した。そのとき、武士と火焔にせめたてられた多数の官女が三條東殿の井戸に入って非業の死をとげたという悲しい歴史も残っています。
19. Jingo-ji Temple
ほの国: 伝源頼朝公像の肖像画を収蔵し虫干しの時に公開される。奥の展望台には2枚100円でかわらけを投げることができ、上向きに投げるとうまい具合に飛んでゆく
20. 此附近 平清盛終焉推定地・此附近 高倉天皇誕生地
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21. 法住寺
22. 長楽寺
Cono: 清盛の娘、建礼門院が出家した寺。亡き息子安徳天皇の御衣で作った仏幡もある。
23. 示現山 満願寺
Cono: 鹿ヶ谷事件の首謀者として鬼界ヶ島に流された俊寛は、法勝寺の執行だった。その法勝寺の跡を示す石標が境内にある。
24. 鬼一法眼社
Cono: 鬼一法眼は、平安期の京都堀川に住んだ陰陽師 で、『 六韜 』という兵法の大家で、文武の達人とされた人物。 源義経がその娘と通じて伝家の兵書『六韜』を盗み学んだという伝説は有名。
25. 寶樹寺
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26. 滝口寺
Cono: 参道の中途にある石は、横笛が自分の気持ちを伝えようと出家した滝口入道を訪ねたが、会うことを拒否された折、切った指の血で歌を書いた石。「山深み思い入りぬる柴の戸のまことの道に我を導け」
27. 平清盛公西八条殿跡
28. 小督塚
Cono: 小督(こごう)局を弔う五輪石塔。 美貌と音楽の才能で名高かった小督は高倉天皇の寵愛を一身に受けていたが、清盛の娘である建礼門院が中宮であったため、半ば追われる形で、平家の圧迫を逃れこの地に隠れ住んだ。この場所は最初の仮の住まいがあった場所と言われている
29. 熊谷直実鉈捨籔
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30. 阿波内侍ほか建礼門院侍女墓所
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31. 忠盛燈籠
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32. 扇塚
Cono: 平敦盛の妻が「御影堂扇」を作った地
33. Jakko-in Temple
Cono: 壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子・安徳天皇を弔いながら建礼門院が終生を過ごした場所。
34. 落合の滝
Cono: バス停から寂光院につながる道路沿い、焼杉谷川と西田谷川が合流する地点にあります。建礼門院の「ころころと 小石流るる 谷川の かじかなくなる 落合の滝」という歌が看板に書かれています。「滝」というより、「川と川が合流し、勢いが少し激しい場所」という感じ。
35. 小松谷御房 正林寺
Cono: 平重盛の別邸跡。重盛が小松殿と呼ばれていたのはこの小松谷に邸宅を構えていたからだといわれる。
36. 極楽橋
Cono: 源氏軍の熊谷直実が、法然上人を訪ね、出家を決意し兜を起き、弓の弦を切り、弓を池に架けた形がこの橋の起源だといわれている。
37. 新熊野神社の大楠 "樟大権現" (京都市天然記念物)
じゅんぺ~ 。: 樹齢830年、幹周り6m、樹高19m。永暦元年(1160)の創建時に和歌山県の熊野から運ばれ移植されたもので、後白河上皇のお手植と伝わる。
38. 牛若丸首途乃井
39. Rokkaku-do
40. 寿延寺 (壽延寺) 洗い地蔵
41. Sanjusangen-do
42. 崇徳天皇御廟
43. 神泉苑
44. Koyasu Pagoda
45. 新熊野神社
46. 白河天皇 成菩提院陵
47. Kurama-dera
48. 高倉天皇 後淸閑寺陵
49. 松原橋(鴨川・疏水)
50. Gojo-ohashi Bridge
51. Nijo Park
52. 由岐神社
53. Heian Jingu Shrine
54. Houkanji Temple and Yasaka Pagoda
55. 伏見稲荷大社 御旅所
56. 因幡薬師 (平等寺)
57. 祇園女御塚
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58. 川上地蔵堂
59. 源義経公供養塔
60. 鞍馬寺 霊宝殿
61. 謡曲「鞍馬天狗」と僧正ヶ谷 駒札
62. 宇治川先陣之碑
63. Byodo-in Temple
64. 源三位頼政公の墓 宝篋印塔
65. Iwashimizu Hachimangu Shrine
66. 後白河天皇 法住寺陵
hasshiy: 第77代天皇。院政の拠点となった場所です。
67. 鞍馬寺 義経堂
68. 僧正ガ谷不動堂
69. Rokuharamitsuji Temple
Cono: 平清盛 坐像など清盛ゆかりのものが結構あります
70. 延勝寺跡
71. 本殿 金堂
72. Kiyomizu-dera Temple
73. 蓮池
74. 金戒光明寺 熊谷堂(蓮池院)
75. 義経公息次ぎの水
Cono: 冬柏亭を少し登った右手にあります。牛若丸が東光坊から、奥の院への兵法の修行に通う途中、ここの清水を汲んでのどの乾きをうるおしたと伝えられています。
76. 馬町十三重石塔(佐藤継信忠信塔)
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: この石塔は、ここから500mほど北東、馬町(東山区渋谷通東大路東入)の路地裏にありました。塚の上に南北に並んで立ち、源義経の家人、佐藤継信・忠信兄弟の墓と伝えられていました。昭和15年(1940)に解体修理が行われ、現在の十三重塔の姿に復元されました。その際小さな仏像や塔などの納入品が発見されています。南塔には、鎌倉時代後期、永仁3年(1295)の銘文が刻まれています。(京都国立博物館HPより)
77. 白河院並びに法勝寺跡
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78. 常徳寺
79. 高松神明神社
80. 得長寿院跡
81. 圓光大師(法然上人)御廟所
82. 六條判官 源為義墓所
83. 佐藤継信・忠信之塚
84. 平康頼・西行法師・頓阿法師 供養塔
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 安元3年(1177)、後白河法皇による平家打倒の企て(鹿ヶ谷の陰謀)は露見し、院の近臣であった平康頼(たいらのやすより)、藤原成経、俊寛僧都は鬼界ヶ島に流罪となった。のちに俊寛以外は赦免され、康頼も京に戻り、東山双林寺のほとりにあった山荘に隠棲した。
85. 琴きゝ橋跡
Nao: 琴の名手として知られた小督(藤原成範の娘)は、高倉天皇の寵愛を受けたが、中宮の父平清盛の逆鱗に触れ、内裏を出て嵯峨野に隠れ住んだ。天皇から捜索の命を受けた源仲国は、彼女の琴の音を頼りに居所を尋ね当てたという。この石標は小督の弾く「想夫恋」を仲国が聞いたと伝える橋跡を示すものである。石柱の東面には、 「一筋に雲ゐを恋ふる琴の音に ひかれて来にけん望月の駒」と刻まれている。(京都市HP参照)
86. 木曽義仲公首塚
87. 義経公背比べ石
Nao: 鞍馬寺で修業を積んだ牛若丸(源義経)が、承安4年(1174)、16歳の時に鞍馬寺を出て奥州平泉へ下った。この背比べ石は、奥州に下る際に牛若丸が名残を惜しんで背を比べた石と伝えられている。
88. 法住寺
hasshiy: 後白河上皇の院政場所として、身代不動明王が祀られていることから「みがわりさん」として、大石内蔵助が討入り前に参拝したことで有名です。御朱印は身代不動、阿弥陀如来、忠臣蔵の3種類があります。
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